2011年07月07日

鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる

7月7日,今日はいわずと知れた七夕の日。本来であれば,短冊に願い事など託して笹に飾って楽しく過ごす日ではありますが,今回は古都鎌倉にちなんだちょっとシリアスな七夕の話をお送りします。
 まあ,たまにはこんな趣向もいいでしょう。

 では,どうぞ。
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鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる

▲七夕飾りを仰ぎ見て(鶴岡八幡宮 三の鳥居)

本日2011年7月7日,鎌倉は昼間は晴れ間がでることもあったようですがおおむね曇り空。鶴岡八幡宮の境内では多くの七夕飾りが,強風にあおられて大きくたなびいていたようです。
鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる
▲梶の札に飾られた舞殿

もともと7月7日の七夕祭りは旧暦で行われていました。

今のような梅雨も明けきらない時候に七夕をやるようになったのは明治5年に新暦を採用してからのこと。 

それ以前の時代には,夏も終わりに近づき秋の便りが聞かれ始める(現在の新暦でいえば8月末〜9月初に相当)時候に七夕祭りをしていたということになります。

当然ながら梅雨明け前に比べると晴天の確率も多く,旧暦でやっていた昔は天の川を拝めた確率も高かったかもしれませんね。

現在は,鶴岡八幡宮もそうであるようにほとんどの地域で新暦の7月7日前後に七夕祭りが行われています。

ところで,今の七夕の日は旧暦5月下旬に相当します。

色とりどりの七夕飾りに華やぐ鎌倉で,ほぼ今の七夕シーズンにあたる旧暦5月の下旬にかつて大きな悲劇が同じ鎌倉の地を慟哭させたことを知っている人はどれだけ居るでしょうか。

今を去ること678年前。

旧暦の1333年5月22日,長きにわたって鎌倉幕府を支配してきた北条一門は新田義貞の軍勢に追い詰められ,ついに東勝寺にて集団自決し鎌倉幕府が滅亡しました。

太平記によると,当主の北条高時をはじめ北条一族と家臣の870人もの人々が東勝寺近辺で次々に自害して果てたとあります。

奇しくも,現代の鎌倉では七夕祭りの時期と鎌倉幕府の命日が重なっているわけです。

鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる
▲宝戒寺本堂。今やこの寺は北条得宗家にとって唯一の安住の地なのかもしれません

鶴岡八幡宮の境内を後にし,少し食事をとってから,北条一族を供養する宝戒寺と腹切りやぐらへと向かいました。
 
まずは宝戒寺。八幡宮から東へ歩いて5分ほどです。
 別名「萩寺」ともよばれ,9月末には境内一杯にに白い萩の花が咲き散らしますが,今は深い緑が覆いつくしています。
 高時ら北条一門の死後2年目の1335年,彼らを弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた宝戒寺は賑やかな八幡宮とは裏腹。しっとりと静寂な境内には時折,本堂の鐘が響くのみです。

ぼぉ〜〜ん〜ん〜ん〜・・・・・・・

かつて北条得宗家の屋敷があったこの地。隅々の土にまで浸み込んでいくかのようにいつまでも梵鐘の余韻が小さく長く鳴り響いていました。

鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる
▲樹叢がせり出す東勝寺の跡地前にて


宝戒寺から少し大町方面に歩き,東へと続くわき道を辿って,北条高時腹切りやぐらを目指しました。

歩くこと10分弱。滑川にかかる東勝寺橋から,谷戸の住宅街を両脇に坂を上り詰めるとまず東勝寺の跡地に着きます。

かつて多くの北条一門が自害した寺院跡には木々が生い茂っています。

火が放たれた寺院の内外では,命運尽きた人々が喉に腹に刃物を突き立てて次々に死んでいきました。太平記には,いまわの際を迎えた人々が織り成す様々な人間ドラマがまざまざと描かれています。
 そうした中に信州塩田から遠路はるばる駆けつけた北条国時・俊時の親子がいます。父子ともども東勝寺付近で自害した様子,不忠な家臣のせいで無念の最期だった様子が1章割いて描かれています。

鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる
▲傍らに腹切りやぐらがある祇園山ハイキングコース入口

太平記のこのくだり(第10巻)は自分も目を通しました。悲話として名高い平家物語にも勝るとも劣らないくらい,負けた側が辿る運命の悲惨さというかどうしようもなさがにじみ出ていると感じました。

東勝寺跡のすぐそば,山の入口(祇園山ハイキングコース)を少し登ったところに,北条高時腹切りやぐらがひっそりと口をあけています。

‘霊処浄域につき参拝以外立入禁’

677年も時が流れているとはいえ,多くの人々が絶望と恐怖にさいなまれながら死んだ場所・・・大地は血で染め上げられ,現在でも由比ガ浜の工事現場などからは人骨の破片がたくさん出てくるといいます。
 いつもは一事が万事ノウテンキな自分ですが,このときばかりはさすがに表札に書かれた文字がずっしり重くのしかかります。

鎌倉の七夕に,歴史の悲劇をたどる
▲夕暮れ時,七夕祭の神楽が優美にしめやかに催されました

午後5時になる頃,再び鶴岡八幡宮に戻ってまいりました。

舞殿では七夕祭りの奉納神楽が行われました。楽器や筆硯,糸枠などを神前に供えて,技芸の上達とお清めを祭神に祈願して舞われる神楽なのですが,幕府滅亡の翌日という日取りと鎌倉という場所柄を思えば,677年前の戦火の犠牲者をも弔い靖んじる舞いにも見えてきます。

七夕の鎌倉に息づく歴史を思えば,露のしたたる七夕祭りも残念ではなく不思議と至極理にかなっている気がするのは自分だけでしょうか。

この古都鎌倉では今を生きる人々も昔非業の死を遂げた人々もともに七夕祭りに参加しましょう。

最近流行の「環境にやさしい」だけでなく「死者にもやさしい古都鎌倉」というのも必要かもしれないと,七夕の鎌倉で先人達の足跡を辿ってみて切に感じました。

2011年7月7日 夜



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